川上未映子『ヘヴン』

ヘヴン

ヘヴン

友人から借りて読んだところ、とても心に残るものがあったので、感想を残すことにします。

【あらすじ】
斜視である主人公「僕」は、中学でいじめを受けている。同じくクラスでいじめを受けている女子「コジマ」から短い手紙をもらったことをきっかけに、二人は友人として関係を始める。敢えて不潔にすることで、離婚してしまった父親とのつながりを「しるし」として身につけ続けるコジマと、斜視といじめに悩む僕。ぎくしゃくした家族、何でもないことのようにいじめを続けるクラスメイト、意味の見いだせない暴力の中で、僕とコジマの関係が少しずつ日常を変えていく。

ひとつ、強く思ったのは「コジマは暴力に晒されても『損なわれなかった』」ということです。
物語の序盤、はさみであらゆるものに切込みをいれるコジマは、切込みをいれる理由と共に、自分で定めた切込みのルールをこう説明します。

「ぜんぶをぴしっと切っちゃうんじゃなくて、一部だけちょっと、ほんの少しだけ切るのが大事なんだって。(中略)大きくじゃきじゃき派手に切ったりして、それが使えなくなったりしたらそれはもうだめなの。その機能じたいに迷惑かけることが目的じゃないの」
(略)
「たとえばカーテンだったらね、なんていうのか、カーテンのカーテン性みたいなのを損なわない程度の切りじゃないと、だめなわけ。(以下略)」

そして、コジマは「僕」と自らが受けている暴力に対しても「私たちはそれを受け入れてる」と言います。損なわれているのではなく、受け入れている。
それはどう見ても人を傷つけ、その人の何かを損なうほどの暴力なのに、コジマは断言します。暴力によって、私たちは決して損なわれてなんかない、と。

では、損なわれる何かとはいったいなんでしょうか?
作品の中では、コジマが言うところの「カーテンのカーテン性みたいなの」が損なわれるものにあてられています。
そして、「僕」にとっての『「僕」性』みたいなものは、斜視です。
「その目は、君のいちばん大事な部分なんだよ。ほかの誰でもない君の、本当に君をかたちづくっている大事な大事なことじゃない。」とコジマが言うように、斜視は「僕」の核のようなものとして描かれます。

アイデンティティなんて手垢のついた言葉で形容されるようなものではない「僕」にとっての斜視。「僕」が「僕」であるというしるし。けれど皮肉なことに、そのしるしこそがいじめの原因でした。「僕」は、「僕」が「僕」であるしるし=斜視によっていじめを受けていると思っていました。
しかしそのいじめの理由は、物語後半「僕」をいじめるクラスメイトの言葉によって否定されます。
「君の目が斜視っていうのは、君が苛めをうけている決定的な要因じゃないんだよ」と。
重ねて彼はこう言います。「別に君じゃなくたって全然いいんだよ。」と。

彼の言葉に「僕」は大変なショックを受けます。いじめられることに理由なぞなかった、それなのに「僕」は自らが損なわれるような暴力を受けていた。

コジマは繰り返し「物事には意味があるのだ」と言っていました。「そうじゃなければ報われない」と。
だからこそ、「僕」はいじめの理由を斜視に求めていたのかもしれません。「僕」の『「僕」性』によっていじめられる、ということは即ち、意識せざるを得ないことにより、自分の核が補強されることを示しています。
つまり、「自分は斜視であり、周囲もそれを認めている(からこそいじめられる)」と思うことで、いじめは「僕」を損なうものではなく、反対に「僕」の存在に意味を与える要因になりえたのです。
だからこそ「僕」は、損なわれるほどの暴力に耐えていられたのではないでしょうか。

しかし、いじめの要因だと考えていたものが否定されたとき、「僕」は混乱に陥ります。
しるしが否定されたことで、「僕」は少なからず損なわれてしまったように描かれます。しるしだと思っていた斜視は、実は何でもないことだった。自分の核のようなものだと思っていたものは、実は核ではなかった。

混乱の中さらなる暴力が「僕」とコジマを襲い、物語は急いで終末へと足を早めます。
最後まで損なわれることを許さなかったコジマに「僕」が見出した何か、それこそが二人の救いでした。
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「暴力によって損なわれる」と聞いて、思い出したのは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』です。
この作品の中には、性暴力によって損なわれた登場人物が何人か出てきます。対して、同じく圧倒的な暴力を扱った『ヘヴン』には、損なわれた人物はひとりもでてきません。
そのコントラストに、私は大変な光を見出したように思います。
強力な暴力を前にしてでも、損なわれないこともあるのだ、と。

あらゆる暴力が渦巻く中で、傷つかずに生きていくことは不可能です。私は常に何かによって傷つけられ、また、同時に何かを傷つけ続けます。
それでも、損なわれることは決してないでしょう。「損なわれることはない」ということこそが、私が損なわれることはない理由になりえるのだと、そんな気がしています。「私」の『「私」性』のようなものはなくならないし、なくなるような目に見える「モノ」ですらないのです。
『ヘヴン』は、そんなメッセージを発した作品です。

光をまとった、素晴らしい作品を読みました。